最近気になったニュース。
レスのついでに書こうと思ったけど、ついでの方が長くなった(汗)ので別カキコにしました。
・「バイオリンうまく弾けてない」小3長女を殴った疑い(2010.06.05)
http://www.asahi.com/national/update/0605/OSK201006050057.html> 小学3年の長女(9)を平手でたたいたとして、兵庫県警は5日、同県芦屋市の無職の女(34)を暴行容疑で逮捕し、発表した…
朝日の記事。自分はワイドショー的な興味はもともと無い人間ですが、珍しく詳細が欲しいと思った記事です。これは書き方が悪いのか? ビンタでいきなり逮捕? 内容によっては、そちらの方が問題だと思うんですけど。
…と、思って読売の同記事を読んで少し納得した。私、読○新聞好きではないんですが、この記事の文面は…アサヒさん悲惨、かなり。
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20100605-OYT1T00405.htm 別のことも含めて色々連想して思うことですが、世の中が(人が)、責任回避そのものが目的となって、突き動かされている気がします。それが雪だるま式に問題を起こしているのだけど、責任回避だから問題が問題なのかよく見えない。何も解決しない。
僕が「責任」の話でよく思い出すのは、養老孟司さんが本に書いていたことで、正確には思い出せないけど大体次のようなこと。
『どこかの山の石で転んで死んでも自分のせいだ(誰のせいとか言わない)けど、都市で転ぶと「この段差を作ったのは誰だ」という話になる』
凄く重要な指摘だと思いました。転んだ痛みとか嫌な感情は、山ならぶつけられないけど、人工的な環境であればあるほど探してぶつけることが出来ちゃうってことです。だから探せってことじゃなくってよ。欲と怒りのぶつけ合いなら「責任」ってラベルじゃないし。
本当に段差に問題があったのか・あるのか・あり続けるのか観察して考えて行動すれば良いと思う。僕は責任って「数学的に答えがあるのが当然」ってことじゃないって肝に銘じてます。「完全たる責任」という答えが無いから、ヤッカイである責任が必要なんでしょう?
あと最近(?)の傾向だか、よく目について気になってるのは「自分が悪人を裁けるのは当然」って疑問を持たずに思うこと。
もうちょっと正確に書くと「私が悪人(だと思った人)を(自分も気づかない差別心、怒りで)裁いて当然」って感じ。正すための批判なら良いと思いますが、何の意味も無いとか、自分の立場を超えているとか、それが数の暴力になることにも無頓着だとか。
悪人(と思った人は)立場が低い。弱い。だから、そこを空かさず攻撃する。仮面を被った、苛めの心理になります。怒って自分が正しいと思ってるから、自分が悪いことしているなどと夢にも思わない。気がつかない。解決しない。自分自身の怒りの火種に気づかず、怒りを燃やすきっかけを探している。何の苦労もリスクも無く、善人に変身しちゃう。でも、悪人に怒っても、善人にはなれませんし、差別心だったら下もいいとこでしょう。
これは身近な人もやってるのを見るし、自分もやってるのかも知れません。
この指摘は見たこと無いので、あまり気がついている人がいないのかも。なので書いときました。誰かの役に立ってね。
責任転換も過剰不審も過剰防衛も神になっちゃうのも、まぁ悪循環だらけで可哀想な世の中だよなぁ。(^_^;)
…ニュースに戻ります。
・行方不明の「ハヤト」発見 鹿児島大が電波キャッチ(2010.06.02)
http://www.asahi.com/science/update/0602/SEB201006020022.html> 宇宙で行方がわからなくなっていた鹿児島県産小型人工衛星ハヤト(KSAT)からの電波を1日夜、鹿児島大がキャッチした…
何となく…色々な意味で、人ごとじゃなく感じてしまったニュース(笑)
私の名前と同じだし、行方不明って何か…ありそう。(^_^;)