自分のサーバー上の画像を、TwitterやFacebookに載せられるかテストしています。
上手く表示されるようなら、今年撮ったの桜の写真シリーズをアップしたいと思います。
カテゴリー: 私の写真
猿の天国、長野県の地獄谷(1)良い感じの写真編 〜 2011年08月
長野県の地獄谷の猿に会いに行ってきました。
猿の写真をいっぱい撮ったので、今回はその中から気に入ったものを公開します。
母と子ども編
雪の地獄谷のときもそうでしたが、母と子の姿が印象に残りました。
猿の母と子の風景。
(twitterでも公開)
twitterで聖母子像のようだとのリツイートを頂きました。
(twitterでも公開)
白黒写真も良いよね!
(twitterでも公開)
猿のお母さんは、どんなことを考えているんでしょうね。
猿の子ども。可愛いです。
猿の様子編
橋の側面の鉄骨で寝ています。器用なものです。
(twitterでも公開)
橋の上で毛づくろいをしている猿たち。
寝ている小猿がふとこっちを見たところ。 (twitterでも公開)
これから貫禄が増していきそうな猿ですね。
地獄谷は冬と夏で2回目になります。
猿は人間に近いためか表情が豊かな写真になって面白いです。写真はいっぱいあるので、次回に続く予定です。もうちょっとくだけた写真でいこうかな。
見てくれてありがとう!
(まだ公開していない、雪の地獄谷の猿も公開したい! 公開したときはブログでお知らせします)
震災から約3ヶ月の岩手県で見た光景 4.種市町、田老港 〜 2011年6月2日
約1ヶ月前の6月初頭(震災から2ヶ月と3週間後)に、岩手県に行きました。
前回までに引き続き、現地で撮った写真を公開します。最終回です。
今回もまた津波による物的被害の写真が大半を占めます。
毎回しつこく書きますが、写真は「見せたい部分のみを切り取る手法」なのでどうしても演出になる傾向があります。報道の映像や写真ではなく実物を見たいと思って現地に行った私が、その写真をお見せしているというジレンマがあります。“カメラのファインダーという視点からの”…1つの事実として見て頂ければと思います。
お読みでなければ、初回の記事から読んで頂けると嬉しいです。
種市町
種市町の、たねいち海洋公園に立ち寄った。ここでは被害の状況を間近で見ることが出来た。
海水浴場の施設。
色々写真に入れようとして、意識し過ぎた写真になってしまった。
破壊されたボイラーか何か。
壊れた天井。
放置されていたAEDの装置。
破壊されたトイレの様子。
ロッカーの散乱する更衣室。
止まっていた時計。
寝てしまった看板。
植物の被害も。倒れなくても塩でやられてしまう。
倒された柵。
写真にはあまり写っていないが、舗装の剥がされた箇所もたくさんあった。
折れ曲がった柵。
倒壊した休憩所か何か。
防波堤の柵。
案内してくれた方によると、ウニの養殖場ではないかと。散乱しているのは水槽か。
帰り道ですれ違ったトラック。壊されたたくさんの車を運んでいた。
田老
翌日、帰りに再度通りかかった、田老港。
改めて凄い被害だと思った。
正直初日は、目の前でまざまざと見ているはずなのに、よく理解できなかった感じがある。
被災された建物。
田老観光センター。
観光業も大変だと思います。ピンチをチャンスに変えるぐらいの秘策が見つかるといいのですが…。
最後に…
都合で、秋田県へ出て日本海側を通って帰りました。
以上、種市町と田老港の写真でした。
これまで4回に渡り、岩手県の宮古港から、田老港、田野畑村、普代村、野田村、久慈市、種市町の写真を公開しました。
現地に詳しい人の案内でこれらの地域を巡ることができました。感謝いたします。宮古港から南の地域は、車で入りにくそうとのことで候補から外しました。
まとめ
津波の被害を受けたところと受けなかったところでは大きな差があると思いました。
津波の惨状を見てハッキリと感じたことは、ごく単純に「海辺で地震にあったら(津波がきたら)まず逃げる」ということで、それは肌で感じました。それに加えて「周りの人を引き連れて逃げましょう。それを伝えていきましょう」ということを思いました。他は呆然としてしまって、どう考えていいのかわかりません。あと実際に津波の被害を見たら、感傷的な気分が逆に減った気がします。被害が少ないという意味ではなくて、暗闇に隠れていたものの正体が少し見えたような気分です。
ひと月前の積み上がった瓦礫をくぐり抜けた方が、今回「よく片付けたわ…」と関心していました。そういう意味では復興が全く進んでいない訳ではないことがわかりました。関係者のもの凄い努力から、一筋の希望を感じることが出来ました。これは自分の気持ちにも大きく影響を与えました。
しかしながら、生活の場としての復興はまだまだ進んでいないといえます。仮設受託を建てる場所がないなど、地域の事情もたくさんありそうです。よく阪神大震災の復興と比べられますが、規模の違いや津波の被害、現地に行く手段(道路の数など)が少ないことなどを考えると、単純に比べられないと思いました。
ともかく大変な状況ですが、コツコツと地道に生活を取り戻そうとしている方々が一番偉いのだと思いました。
今回は、公開する意味やどのようにお伝えすればいいのかと、私自身が迷う場面が多く、何となく歯切れの悪い記事になったかもしれません。思ったことや写真を眠らせておくよりはいいかな?…と思った次第です。
見ていただき、ありがとうございます。
関連記事
- 震災から約3ヶ月の岩手県で見た光景 1.宮古港まで 〜 2011年6月1日
- 震災から約3ヶ月の岩手県で見た光景 2.田老港、田野畑村 〜 2011年6月1日
- 震災から約3ヶ月の岩手県で見た光景 3.普代村、野田村、久慈市 〜 2011年6月2日
- 震災から約3ヶ月の岩手県で見た光景 4.種市町、田老港 〜 2011年6月2日(この記事)
震災から約3ヶ月の岩手県で見た光景 3.普代村、野田村、久慈市 〜 2011年6月2日
約1ヶ月前の6月初頭(震災から2ヶ月と3週間後)に、岩手県に行きました。
前々回・前回に引き続き、現地で撮った写真を公開します。
今回もまた津波による物的被害の写真が大半を占めます。
毎回書きますが、写真は「見せたい部分のみを切り取る手法」なのでどうしても演出になる傾向があります。報道の映像や写真ではなく実物を見たいと思って現地に行った私が、その写真をお見せしているというジレンマがあります。“カメラのファインダーという視点からの”…1つの事実として見て頂ければと思います。
お読みでなければ、初回の記事から読んで頂けると嬉しいです。
普代村
海沿いの公園にあったポール。
ポールの先に孤立したテトラポッド。あれが流されてきて、なぎ倒した可能性も。
水産物荷捌施設。
ここは近づけたので様子を見させて頂いた。
結構な高さだが、屋根上まで壊れていた。
野田村
この辺りには住宅があったらしいが、何と言っていいのか。特に奥の方は住宅が密集していた痕跡が。正直まともに実感が湧かなかった。
写真を繋げてパノラマ(約180度)にしてみたが、これでも伝わらない。
海岸近くには、瓦礫になってしまった物が積まれていた。
海岸沿いは、松がなぎ倒され、塩で枯れていた。
先程の広い住宅地の跡を通り抜けた。
野田村災害廃棄物仮置場。
ひと月前と比べて町の中はかなり片付いたようだが、仮置き場に移動している段階で、まだまだその先が大変だと思う。
久慈市
久慈港も被害の痕跡がたくさんあった。
海辺の民家の被害。
ひといき
三陸鉄道の久慈駅で売っている「うに弁当」。旨かった!元気を頂いた!
ウニが復活してお弁当も復活したとのこと。数量限定で、このとき人数分足りなかったのだが、注文を喜んでくれた店主が急遽数を間に合わせてくれた。
その後このお弁当の話題がNHKで放送されていた。
以上、普代村から野田村、久慈市まででした。次回は、種市町の写真です。
見ていただき、ありがとうございます。
関連記事
- 震災から約3ヶ月の岩手県で見た光景 1.宮古港まで 〜 2011年6月1日
- 震災から約3ヶ月の岩手県で見た光景 2.田老港、田野畑村 〜 2011年6月1日
- 震災から約3ヶ月の岩手県で見た光景 3.普代村、野田村、久慈市 〜 2011年6月2日(この記事)
- 震災から約3ヶ月の岩手県で見た光景 4.種市町、田老港 〜 2011年6月2日
震災から約3ヶ月の岩手県で見た光景 2.田老港、田野畑村 〜 2011年6月1日
約1ヶ月前の6月初頭(震災から2ヶ月と3週間後)に、岩手県に行きました。
前回に引き続き、現地で撮った写真を公開します。
今回も津波による物的被害の写真が大半を占めます。
毎回書きますが、これを公開することでどういった意味があるのだろうか?と考えている自分もいます。また写真は「見せたい部分のみを切り取る手法」なのでどうしても演出になってしまいます。お読みでなければ、それについて触れている初回の記事から読んで頂けると嬉しいです。
“カメラのファインダーという視点からの”…1つの事実として見て頂ければと思います。
田老港
田老港を通りがかったが、かなり広い範囲が被災されていた。
家の被害。
思えば更地だって、家の被害なんだよね。
(公開すべきか迷いました)
田野畑村
仮設住宅。既にご入居されているようでした。
島越駅付近
ここに村があったと聞いた。
島越海水浴場近くの手すり。
島越駅。
同じく島越駅。
同じく島越駅。
軽自動車で大きさがわかる。
破壊された車。
羅賀
本物の電車ではなく、モニュメントか何か。それだけが残されていた。
電灯の消えたトンネルも多い。
日中なのに怖い。
明戸
明戸の堤防。めちゃくちゃに壊れていた。
(望遠レンズで圧縮されて見えるが、実際は長い)
明戸キャンプ場。
奥には前の写真の堤防。長い範囲が丸ごと壊れている。津波の力の恐ろしさを感じる。
普代村の堤防
普代村の堤防。
昔の村長が反対を押し切って高い堤防を築いたという。そのお陰で、普代村は被害が少なかったという。
以上、田老港から田野畑村、そして普代村まででした。次回は、翌日の普代村から始めます。
見ていただき、ありがとうございます。
関連記事
- 震災から約3ヶ月の岩手県で見た光景 1.宮古港まで 〜 2011年6月1日
- 震災から約3ヶ月の岩手県で見た光景 2.田老港、田野畑村 〜 2011年6月1日(この記事)
- 震災から約3ヶ月の岩手県で見た光景 3.普代村、野田村、久慈市 〜 2011年6月2日
- 震災から約3ヶ月の岩手県で見た光景 4.種市町、田老港 〜 2011年6月2日