ゾゾラ氏は、重たい人であった。
ゾゾラ氏を知る人は、口々にこう言った。
「あの人はね、なんか、こう、みょうに重
っ苦しいんだよね」
「そうそう、いつでも、そうなんだ」
「だからさ、みんなが、もりあがってる時
なんかに、あの人が入ってくると、とたん
に、しらけちゃうんだよ」
「ほんと、ほんと」
「悪い人じゃないんだけどさ…」
そのとおりである。
ゾゾラ氏は、全然悪い人なんかじゃない。
真面目で、おとなしくて、優しい人なのだ。
ただ、時々…、いや、しょっちゅう…、
いや、はっきり言ってしまえば、いつでも重
いのである…。まわりの空気にくらべて、ゾ
ゾラ氏が、重すぎるのである。
それが、みんなから嫌われる原因であるこ
とを、ゾゾラ氏も知っていたし、氏自身が、
自分の重さに、いささかうんざりしていた。
自分で自分にうんざりしているだけなら、
まだ、よかった。
あるとき、ついに、絶望的な事態になった。
つまり、ゾゾラ氏は失恋したのである。
ゾゾラ氏が、一生を捧げようと心に決めた
絶世の美女に向かって、恐る恐る愛を告白し
た時、その美女はたいへん率直な返事をして
くれた。
「オッホッホッ…、あなたの一生を捧げられ
ても、はっきり言って、あなたには、漬物石
にでもなってもらうしか、使い道ないんじゃ
ないかしら? それにアタクシ、漬物は大嫌
いなの」
そこまで明確に言われては、ゾゾラ氏とし
ても、重大な決意をしないわけにはいかない。
ゾゾラ氏は、スーパーへ行って、しっかり
したロープを買った。それから、あちこち探
しまわって、手ごろな枝ぶりの、松の木を見
つけた。
さて、松の枝にロープをかけ、あらんかぎ
りの力をこめて、きっちりと結んだ。
「みなさん、さようなら!」
しごく、あっさりと、人生に別れをつげる
と、ロープに首をさしいれた。
ふと、鋭い視線を感じたゾゾラ氏が下を見
ると、松の木のそばに、太った真っ黒な猫が
じっと座って、氏を見上げている。
ゾゾラ氏は、とまどいながら言った。
「おい、そこを どいてくれないか」
だが、猫は黄色い真ん丸な目で、ゾゾラ氏
をみつめたまま動こうとはしない。
「おい、おい、おまえがそこにいると、ぼく
はどうも、落ち着いて首をつれないんだ。ど
いてくれ」
ゾゾラ氏は、なんとしても、この猫を追っ
払いたかった。
自分の最後を、猫なんぞに見られるのが、
情けないのか、あるいは、自分の最後を見守
ってくれる者が、こんな野良猫しかいないこ
とが情けないのか、そのへんは、ゾゾラ氏に
もはっきりしなかったが…。
一方猫のほうは、そんなゾゾラ氏のせっぱ
つまった状況を理解できないためか、あるい
は、しっかりと理解した上で、よけいに好奇
心をそそられたためか、もう、てこでも動く
まいというようにうずくまって、ゾゾラ氏の
ことを、まばたきもしないで見上げている。
「おまえのような、気楽な野良猫には、わか
るまいが、ぼくはこれから、人生最後の重大
な行為をするんだ。だから、おまえになんか
邪魔されたくないのだよ。おねがいだから、
どっかへ行ってくれ、シッシッシッ…」
すると黒猫は、ハシュッ、ハシュッ、とク
シャミをしてから、堂々たるバリトンで言っ
た。
「アンタは、この木にぶるさがって死んじま
えば、それで気がすむだろうが、オレにとっ
ちゃ、いささかめいわくなんだよ。オレは、
めしを食った後は、この木の下で昼寝をする
のが、なによりも好きなんだ。それが、頭の
上に妙なものがぶら下がってた日にゃ、おち
おち昼寝もしてられないわな」
ゾゾラ氏は当惑した。
もともとゾゾラ氏は、気持ちの優しい人で
あったから、猫を追い払うために石をぶつけ
たり、一息に蹴飛ばしてやるなんてことは、
とてもできない。
だが、これと決めたこの松の枝に、ぜひと
もぶらさがりたい気持ちは、刻々強まるばか
りだ。
そんなゾゾラ氏の心を見透かしたように、
黒猫がズバリと言った。
「アンタ、どしてそんなに、死にたいのさ?」
この単純な問いに対して、ゾゾラ氏の口も
素直に反応した。
「だってさ、みんな、ぼくのことを、重っく
るしいって、嫌うんだもん」
黒猫は、またシュッ、シュッと、クシャミ
をしてから、重々しく言った。
「それは違うね。オレのみるところじゃ、ア
ンタって人は、どっちかっていやあ、軽めな
ほうだね。重いのはアンタじゃなくて、アン
タの心だろうよ。だから、その重ったるい心
を捨てちまえば、アンタはとたんに、みっと
もないほど、軽くなると思うがね」
「えっ! 軽くなれるって! でも、どうや
って、心を捨てればいいんだ?」
ゾゾラ氏は、はやくもロープから、首をひ
きぬいている。
「簡単なこったね。オレたちは、消化のわる
いもの食っちまったときなんか、そのへんの
草を少し食べて、それから、ゲホッ、ゲホッ
てやるんだ。そうすりゃ、たいがいのものは
きれいに吐き出せる。アンタも、いままでの
人生でためこんできた消化のわるいものを、
きれいさっぱり、吐き出しちまいな。それで、
サッパリってことよ」
素直なゾゾラ氏は、黒猫の黄色い目に見守
られながら、地べたにはいつくばって、その
辺にツンツンはえている草を、むしゃむしゃ
ほうばった。
すると、なんだか胸がムカムカしてきて、
ゴワーッと大きな塊が口もとまでつきあげて
きた。
「ゲハッ!」
次の瞬間、ゾゾラ氏の口から、ズドンと黒
い塊が地面に落ちた。豚の頭ぐらいの大きさ
だった。
「ハッ! ハッ! いや、驚いたなあ! こ
れがぼくの心か。これが重すぎて、いままで
みんなに嫌われていたのか。チクショー!」
ゾゾラ氏は、吐き出したばかりの自分の心
を、おもいきり蹴飛ばした。
「イッテエー!」
ゾゾラ氏は、びくともしないその黒い塊を、
あきれたように見下ろすと、今度は足取りも
軽くスキップしながら、鼻歌まじりで立ち去
っていった。
「ソソラ、ソラソラ、ウサギノダンスー…」
松の枝には、いまはもう、ひっかかるべき
首もなく、ただロープだけが、むなしく風に
吹かれてぶらさがっている。
そこへ、パンパンにふくらんだスーパーの
袋を五つもぶらさげた、太ったオバサンが通
りかかった。
「あらあ、これって、洗濯もの干すのに、ち
ょうどいいじゃない…」
オバサンは、ロープの秘めた深い意味など
まったく考えることもなく、元気よくひっぱ
った。
だが、ゾゾラ氏が、渾身の力をこめて結び
つけたロープは、はじっこがタランと地面に
たれさがりはしたが、枝にしっかりと結ばれ
て、はずれようとはしなかった。
「やっだあ、なんだって、こんなにきつく結
んだんだろう…」
太ったオバサンは、いまいましそうにロー
プをながめていたが、ひょいと下を見て、ゾ
ゾラ氏の心に気がついた。
「あっらあ! こっちのほうが、よっぽどい
いじゃない。こんなの、探してたのよねえ。
白菜漬けすんのにピッタリだわよ!」
オバサンは、ガバッと股を開いてかがみこ
み、ゾゾラ氏の心をムンズと持ち上げた。
「ウム…、こりゃ、すごい! こんなら、き
っと、よっく漬かるワ!」
太ったオバサンは、ヨタヨタしながら帰っ
て行った。
じっとうずくまっていた黒猫は、フーッと
のびをすると、のそのそ歩いてきて、枝から
タランとたれさがったロープに、二三度、じ
ゃれてみた。
それから、松の木の根元にどっかりすわり
こみ、なにごともなかったかのように、悠然
と顔をあらいだした。
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