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ある日の ヨハンとハインリヒ

佐々木 悦子 著

 戦いは、激しかった。
 敵のすさまじい攻撃の前に、味方はずるず
ると、後退するしかなかった。
「退却! 退却!」
 小隊長の叫び声がした。
 ヨハンは、岩のかげに身を伏せながら、す
ぐ隣にいるはずのハインリヒに、よびかけた。
「ハインリヒ! 後ろの大きな岩まで行くぞ!
次のドカンのあとだ!」
「よし! わかった!」
 ハインリヒは、ヨハンの左の、しっかりし
た灌木の下に伏せている。
 空気が圧縮されて、ヨハンの体がビリビリ
と震えた。砲撃だ。
(おれの上に落ちるなよ!)
 ヨハンは、土にめりこむほど顔をおしつけ
たまま、息をとめる。着弾のすさまじい地響
きと同時に、高々と土煙があがる。
(いまだ!)
 ヨハンは、パッとはねおきると、後ろの岩
まで、一目散に走った。岩かげにとびこむ。
つづいて、ハインリヒが、折り重なるように
倒れこんできた。
「だいじょうぶか」
「ああ、今日はえらくにぎやかだね」
ハインリヒは、笑っている。
(まったく、こいつときたら……)
 ヨハンは、あきれて頭をふってみせた。
「敵は本気だぜ。次はこの岩がふっとぶぞ。
ひといきに残壕まで突っ走ろう!」
 ヨハンがいった。
「ああ、そうだな……。いや、まてよ、おれ
は、ちょっとさっきのところに、もどる。
おまえ、かまわずに、先にいってくれ」
 ハインリヒが、いった。
「なんだって! きさま気でも狂ったのか!」
 ヨハンが、目をむいて怒鳴った。
「ちょっと落とし物をしちゃったんだ。それ
を拾いたいんだよ」
 ハインリヒは、平然としている。
 ふだんは、もの静かな夢想家で、残壕の中
でも詩を書いているハインリヒ。几帳面でき
れいずきで、軍服の手入れをかかさないハイ
ンリヒ。戦いの中では、冷静沈着、誰よりも
勇敢なハインリヒ。
 ヨハンは、およそ自分とは、正反対なハイ
ンリヒがすきだった。
(まったく、こいつときたら……)
 ヨハンは、肩をすくめてためいきをついた。
「おれが援護する。おれの後から飛び出せ」
ヨハンは、手榴弾をはずしながらいった。
「おまえは来るな。おれひとりでもどる」
ハインリヒが、ヨハンをおしとどめる。
「きさまをおいて、おれがひとりで逃げると
思ってるのか!」
 ヨハンは、そういいながら、手榴弾をおも
いきり遠くへなげ、自分は小銃を構えて、岩
かげから、一気に走りだした。ハインリヒも
つづいて走りでた。
 二人は、敵が気づくまえに、さっきの灌木
までたどりついた。ハインリヒは、腹ばいに
なって、そのへんの地面を手でなでまわした。
「あったぞ!」
 ハインリヒは、なにか小さなものを、胸の
ポケットにしまうと、ヨハンにむかって、白
い歯をみせて笑った。
 敵が二人に気づいた。いっせいに、銃撃が
はじまった。ヨハンとハインリヒは小銃を乱
射しながら、走りに走った。
 二人が頭から残壕に、転がりこんだとき、
敵の砲弾が、さっきの大きな岩を吹き飛ばし
た。大地をひきさく炸裂音が、あたり一帯に
ひびきわたった。
 二人が、やっと安全な陣地にもどった時は、
もう夜になっていた。ヨハンはくたくただっ
た。だが、眠りこむ前に、どうしても、ハイ
ンリヒにききたいことがあった。
「いったい、きさま、なにを拾い
にもどったんだ?」
 ハインリヒは、こんな大変な一日だったと
いうのに、いつもとかわらず、軍服の手入れ
をしている。器用な手つきで、取れたボタン
をせっせとぬいつけている。
「ああ、これさ!」
 ハインリヒは、こともなげにいって、つけ
たばかりのボタンを、ヨハンにみせた。
「お、おまえってやつは……!」
 ヨハンは、顔を真っ赤にして、両手をあげ
た。肩がふるえている。
「そんな、ちっぽけなボタンのために、おれ
さまは、いのちをおとすところだったのか!」
 ヨハンは、ふりあげた両手をおろすと、ハ
インリヒの肩をギュッと抱いた。
「そんなにボタンが欲しけりゃ、おれのを全
部くれてやったのに! ワッハッハッハ…」
 そういうヨハンの軍服には、しかし、一個
のボタンもついていなかった。
 ヨハンは、おかしさで顔を真っ赤にして、
笑っている。
 ハインリヒも、そんなヨハンの顔を見上げ
て、うれしそうに微笑んでいる。

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