砂漠の夕暮れです。
赤くゆがんだ太陽が、ゆっくりとふくらん
で、西の砂丘の後ろにズブズブと沈んでいき
ます。黄色い砂漠が、赤い海のように照り映
えるときです。
その中を、ひときわ赤く、うねうねと横た
わっているのは、ワジ、乾ききって水の流れ
ない川です。
砂にうもれた岩のすきまから、一匹の巨大
なサソリがはいだしてきました。ゆっくりと
頭をもちあげ、あたりのようすをうかがって
います。
「ああ、いよいよ今夜だ。まちがいない」
落ちていく太陽が、最後の力で、サソリの
全身を真っ赤に染めあげました。
年老いたサソリの目は、いくたびもの激し
い戦いでつぶれ、後ろ足も一本食いちぎられ
ています。でも、砂漠の主としてこのあたり
を支配してきた力は、まだ衰えてはいません。
サソリの足には聴毛という、細くまっすぐ
な毛がはえています。この聴毛は、空気中の
ほんのわずかな振動でも、敏感に感じとるこ
とができます。それに、サソリのするどい嗅
覚があれば、えものを獲るのに困ることはな
いのです。
日が沈むと同時に、しめっぽい風が吹き上
げてきました。風は、かわいた砂を押し流し
ます。黄色い砂粒は、こぼれるたびにこすれ
あって、キュルキュルと鳴りました。
暗くなった東の空に、まんまるい月がのぼ
りました。
「満月だな」
サソリには、銀色の月の光が砂漠の砂には
ねかえって、キラキラ光るのがわかりました。
そのとき、バサバサッという鋭い羽音がし
ました。サソリの岩のある砂丘に、一羽のラ
ナーハヤブサが、舞い降りたのです。ほっそ
りとした姿の、まだ若い鳥です。
黒と白のしま模様の羽をたたみ、かぎ型に
まがった黄色のくちばしで、尾羽をととのえ
ました。
老いたサソリは、見えぬ目をハヤブサにむ
けて、言いました。
「サラの花が咲くぞ」
サラの花。それは、砂漠に住むものでも、
だれも見たことのない不思議な花でした。
サラの木は、ワジのふちにそってはえてい
ます。どんなかんばつにも枯れることがあり
ません。そのずんぐりとした幹にはいつもあ
まい樹液が流れています。地をはうように四
方八方にのばした枝には、かたいけれど青々
とした葉をしげらせています。
でも、この木に咲く花を見たものは、どこ
にもいません。それは百年に一度、たった一
晩だけ咲くと言い伝えられていました。
サラの花はまぶしいほどまっ白で、その清
らかなあまい香りを一度でもかいだものは、
永遠のいのちを得るというのです。
「でも、どこのサラの木にも、花なんかひと
つも咲いてないよ?」
若いハヤブサには、サソリの言葉が信じら
れません。
「今夜、ワジに水が流れだす。そのとき、サ
ラの花がいっせいに咲くだろう」
サソリにはわかるのです。
はるか遠くの川の源に降った豪雨が、地を
ふるわせてこっちへ向かって流れ出したので
す。そして、この砂丘の向こうにある、サラ
の木の群落から、ほとばしるようないのちの
息吹が、強いうねりとなって吹き上げている
のです。
それがサソリの足に伝わってくるのです。
「サラの花って、そんなに素晴らしいのか
なあ? ぼくにはこの花だって、とってもき
れいに見えるけど…」
ハヤブサは、砂丘のあちこちでキラキラ輝
く、小さな花をながめました。それは、『砂
漠のバラ』と呼ばれる、石膏の結晶でできた
硬く冷たい花でした。
「サラの花は生きている。それを見たものに
永遠のいのちを与えてくれるのだ」
「永遠の…? でも、生きているものはみな
必ず死ぬ運命じゃないか?」
若いラナーハヤブサは、不思議そうにたず
ねました。サソリは、サラの木の群落に向か
って、ゆっくりと砂丘を登りはじめました。
「限りあるいのちの中にこそ、永遠にひとし
い一瞬があるのだ」
ハヤブサは首をかしげると、羽をひろげま
した。そして、老サソリを追い抜いて、サラ
の木の群落にむかって飛び立ちました。
満月の溢れるような光が、サソリの影を砂
の上にくっきりと写し出しています。その影
に引き寄せられるように、一匹のクモ形類の
ヒヨケムシがあらわれました。
このヒヨケムシは、サソリのなわばりを奪
おうとして、いままでに何度も戦いをいどみ
ました。そのたびにサソリの強大な尾にはね
とばされ、今度こそとねらっていたのです。
ヒヨケムシの体は、サソリと同じくらいの
大きさです。手むくじゃらの4対の長い歩行
肢で、砂地をすばやく走ることができます。
そして、巨大なあごで獲物をかみくだきます。
サソリは、聴毛によって、とっくにヒヨケ
ムシの接近をとらえていました。すばやく敵
に向かって、触肢というはさみのついた手を
のばし、毒針のある大きな尾を高々とふりあ
げました。
サソリとヒヨケムシは、向かい合ったまま
ずりずりと砂地の上を、輪をえがくように移
動しました。たがいに、相手の一瞬のすきを
ねらっているのです。
満月はすでに高々と中天に達しました。ま
ぶしいほどの銀色の光が、にらみあったまま
の二匹の姿を照らし出しています。
突然、ごうごうという地鳴りがして、ワジ
に濁流が押し寄せてきました。ひび割れた川
床に、泡立つ水があふれ、渦巻き、ぶつかり
あい、荒々しく吠え立てて、流れ下ってきます。
サソリとヒヨケムシのいる砂丘の真下にも、
川からあふれだした水がおしよせてきました。
水は、貪欲に砂地をえぐりとり、巻き上げ、
砂丘を侵食していきます。
あたりは、蒸れた砂と濁った水とが混ざり
合った、湿っぽく生暖かい匂いに満ちていま
した。
「サラの花が咲き出した」
サソリがつぶやきました。
ヒヨケムシは、油断なく身構えながらも、
その言葉を聞くと、あざ笑って言いました。
「花だと? おまえもおいぼれたな!」
サソリは、それにかまわず言いました。
「サラの花を見たい。それまで待ってくれ」
ヒヨケムシは、毛むくじゃらのひょろ長い
肢を振りたて、ひからびた声で笑いました。
「おまえには、今すぐ死んでもらうのさ!
花なんか、あの世ですきなだけ見るがいい!」
次の瞬間、刺すような月の光が、二匹の影
をひとつのかたまりとして、砂地に落としま
した。
ヒヨケムシがサソリの足に食いつくのと、
サソリが体をよじって触肢をのばし、敵の頭
をはさみ込んだのは、同時でした。
二匹はひっくり返って食らいついたまま、
砂丘を転げ落ち、どうどうと流れる濁流のな
かに落ちていきました。
はるか上空で、ラナーハヤブサの鋭い目が
それをとらえました。ハヤブサは大きな翼を
ひろげ、風を切って急降下してきました。
泡立つ流れの中で、サソリはすべての力を
ふりしぼって尾を反り返らせ、先端にある毒
針を、ヒヨケムシの体につきたてました。
一瞬にして、毒液がまわったヒヨケムシは、
サソリの足をくわえたまま、渦巻く流れの中
に沈みました。
気を失いかけたサソリの触肢に、ふれるも
のがありました。ワジのふちでゆれている一
本のサラの若木です。サソリは必死でそれに
しがみつきました。
「すごいよ! ほんとだった! サラの花が
咲いたんだ。いっぺんに咲いたんだ」
川岸に降り立ったハヤブサが、興奮してサ
ソリに呼びかけました。
「ぼくは…、ぼくは、あんな気持ちになった
のは、はじめてだ! 生きてるって、こんな
に素晴らしいことなんだね!」
一面に真っ白なサラの花が咲き乱れる、あ
の楽園のような光景は、ハヤブサの心を生き
るよろこびでいっぱいにしたのです。
「数え切れないほど、たくさん咲いてるんだ。
はやく見にいかないと、しぼんでしまうよ!」
「わしは、もう…、動くことができない」
かすかな声で、サソリが言いました。
ラナーハヤブサは、そのときはじめて、サ
ソリが深手を負って、瀕死の状態にあること
に気がつきました。サソリがあの大きな砂丘
を越えて、サラの木の群落まで行くのは、も
はや無理なことでした。
でも、ハヤブサは、どうしてもサラの花を
サソリに見せたいと思いました。
「ぼくが、運んでいってあげる…」
そう、言いかけて、ハヤブサはためらいま
した。ハヤブサにとっては、サソリを口にく
わえて飛んでいくのはたやすいことです。で
もそれは、砂漠の主として生きてきた老サソ
リの心を、深く傷つけることでした。
かわりに、こう言って飛び立ちました。
「それじゃ、ぼくが、サラの花をひとつ持っ
てきてあげる。ひとつでも、いいよね?」
「ひとつでいい、ひとつでじゅうぶんだ」
そのときです。サソリがつかまっていたサ
ラの若木が、容赦ない水の渦に、根こそぎ引
きずりこまれました。
激しいながれに放り出されたサソリは、ラ
ナーハヤブサの叫びを遠くにききました。
「死んじゃだめだ!」
老いたサソリは、かすかなあまいやわらか
い香りに包まれているのを感じました。
サソリは、いま、ハヤブサの心に、サラの
花がひとつ、ひらいたな、と思いました。
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