上条春彦氏は、変わった人である。
いつでもランドセルをしょっている。
会社へ行くときも、帰るときも、家で飯を
食うときも、テレビを見るときも、ランドセ
ルをしょっている。
上条氏がランドセルをおろすのは、風呂に
はいるときと、ねむるときだけだ。そのとき
は、絶対に誰にも見られないように、細心の
注意をはらうのは、言うまでもない。
なぜ、上条氏がランドセルをしょったまま
生活するようになったかというと、それには
こういうわけがある。
あれは、もう30年も前のことだ。上条春
彦氏が、小学校6年生のとき、ある朝、ラン
ドセルを忘れて登校したのだ。
入学してから、忘れ物なんか一度だってし
たことのない、用心深い上条氏が、ランドセ
ルを忘れたのだ。
クラス中は大笑いになった。
上条氏は、天地がひっくり返ったかのよう
に動転し、かつて経験したことのない恐怖に
襲われた。
それ以来、上条氏はランドセルをしょった
まま、おろすことができなくなってしまった
のだ。ランドセルが、上条氏の心の支えとな
って、30年の歳月が流れた。
上条氏はいつでも、ランドセルをしょって
いる。しょっていないと、息苦しくて不安な
のだ。
むろん、会社で仕事をするときも、ランド
セルをしょったままだから、上条氏はたいへ
んに目立つわけだ。
では、それが仕事上の支障になったか、と
いうと、実はそうではなかった。
世の中というものは、なにがうけるかわか
らないものだ。ちょうど世間では「個性的」
という言葉がもてはやされ初めていた。
なにが「個性的」であるか、よくわかって
いなかった世間は、とりあえず、変わってい
る人が、「個性的」な人だと思うことにして、
そういう人をもてはやすことにした。
「ランドセルをしょった男」という「個性的」
な肩書きで、上条氏はだんだん有名になって
いった。
雑誌のインタビューをうけたり、新聞の
「時の人」に取り上げられたり、ついにはテ
レビのコマーシャルにも、出るようになった。
スーツ姿に、ランドセルをしょって、生真
面目に働く上条氏の姿には、たしかに圧倒的
なインパクトがあったから、人気はうなぎの
ぼりであった。
ちかごろでは、上条氏はテレビのワイド
ショーやクイズ番組にまで、レギュラー出演
するようになっている。もちろん、ランドセ
ルをしょったままで。
いまや、国中で「ランドセルをしょった男」
上条春彦氏を知らぬものはいないほどだ。
上条氏は毎日が楽しくてしょうがなかった。
人はみな、上条氏と握手をしたがり、サイン
を求めた。友達はうじゃうじゃでき、金もう
んざりするほどもうかった。上条氏は、まさ
に人生の絶頂にいた。
ところが、最近、上条氏の心に微妙な変化
が兆していた。
なぜか、むしょうに背中のランドセルが邪
魔になってしょうがないのだ。このランドセ
ルがなければ、もっと軽やかに人生を楽しめ
そうな気がする。
いったい、おれはなんだって、こんなもの
をしょっているんだろう?
鏡をみると、ふやけた中年男がチンチクリ
ンのランドセルをしょって、ニヤニヤ笑いを
浮かべてこっちを見ている。
上条氏はおもわず身震いした。なんという
醜悪な姿であることよ!
だが、上条春彦氏はもはやランドセルをお
ろすことはできない。ランドセルをしょって
いない上条春彦氏なんて、世間から見れば、
なんの価値もない、ただの男なのだから。
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