猫夫婦
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佐々木 悦子 著
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ぼくは、35歳の平凡な独身サラリーマンだ。
まあまあの大学を出て、まあまあの会社に
入り、まあまあの給料をもらっている。これ
といった趣味や特技もなく、とくに親しい友
人もなく、会社とアパートの往復だけの毎日
だ。休日はただゴロゴロ寝ているだけ…。
なんてつまらん奴、と思われるだろう。
まったく、ぼくも、そう思う。
だが、こんな自分をべつにいやだとも思わ
ないし、こんな生活に不満を感じることもな
い。いや、結構気に入っているのかもしれな
い。なにしろ、ものごころついた時から、ず
っとこういう人間で押し通してきたんだから。
大体、世の中の人間を見ていると、大きく
分けて、犬型人間と猫型人間に分けられるよ
うだ。
犬型は、人生を有意義なものにしようと、
ひたすら積極的に生きている。仕事をするこ
とに喜びを感じ、それが認められでもしよう
ものなら、尻尾をふっておどりあがる。夜だ
って、おちおち眠らずに耳をピクピクさせて、
出番にそなえているほどだ。
一方、猫型は有意義だろうと無意味だろう
と、そんなことかまやしない。そもそも人生
をどう生きるかなんて、考えもしない。今の
一刻が快適ならそれでいいのだ。腹を満たす
ために最低限の活動はするが、満腹になった
ら、あとは暖かい寝床にもぐりこんで、のど
をゴロゴロいわせて気持ちよく寝るだけだ。
それ以上、よけいな意欲を持ったりしない。
どうやらぼくは、前世で猫だったため、そ
の習性をひきずっているのか、あるいは来世
で猫になる定めで、いまからその習性を学ぼ
うとする意識が働くのか、この現世でもかな
り猫的な人生をおくっているようだ。
こんなぼくでも、ポカポカの小春日よりに
は、さすがに外へ出たくなる。なにをする予
定もない日曜の午後、近所の公園へふらっと
でかけた。
晩秋のやわらかな陽射しが、黄色くなった
けやきの葉をとおして、いくつもならんだベ
ンチをあたためている。公園の中は人気もな
くしずまりかえっている。ぼくは、すみのほ
うのベンチに腰をおろした。
下から見上げると、色づいた葉の濃淡が日
の光りにすかされて、まるで琥珀のように輝
いている。うっとりとして眺めているうちに、
眠気におそわれてうとうとしたようだ。
ふっと気がついて目をあけると、ぼくの目
の前に一匹の猫がすわっていた。ほっそりと
した真っ白な猫だ。子猫ではないがまだ若い。
ぼくのことをじっと見つめている。なんかち
ぐはぐな感じがすると思ったら、かたほうの
目が水色で、もうかたほうが金色なのだ。
猫は鳴きもせず、すりよって甘えるでもな
く、まばたきもしないでぼくの顔を見ていた
が、いきなりヒョイとベンチに飛び上がった。
ぼくの横にならんで座ってすましこんでいる。
ふだん、ぼくが通りを歩いているときに、
よく、のら猫たちから親しげにあいさつされ
ることがある。猫的性格の持ち主であること
が、かれらにもわかるのだろうか。
この白猫は、かなりプライドの強いやつら
しい。こっちがあいさつをするのをまってい
る。ぼくは手をのばして白猫の背をなでた。
「やあ、気持ちのいい天気だね」
猫は、わずかに目を細めて「フッ」と言っ
た。いや、言ったというより、息をもらした
だけのようだ。ずいぶん愛想のないやつだ。
「おまえも、ノラかい?」
からかいぎみに言って、あごの下に手をや
ったとたん、「フウーッ」というらんぼうな
返事をかえしてきた。みかけによらず、気の
強いやつだ。それならそれで結構。
ぼくと猫はだまってベンチにならんで、ひ
なたぼっこしていた。
その翌日、ぼくが会社から戻ってくると、
アパートのとびらの前に、この白猫がすわっ
ていた。戸をあけると、さも当然という顔で
ぼくよりさきに中に入って行く。
それ以来、この若いめす猫とぼくは、いっ
しょに暮らすことになった。
こいつには、家においてもらってありがた
いという様子などみじんもない。むしろ、居
てやってるんだとでもいいたげな顔つきだ。
おまけに食い物もぜいたくで、ぼくが安い
イワシの缶詰なんかを、夕食のおかずに食っ
ていても見向きもしない。それどころか、ち
ぐはぐな目でチラッとながめると、あわれむ
ように「フッ」と息をもらす。無理やり口に
おしつけると、「フウーッ」とうなる。
そう、こいつは表現手段として、この二種
類しか用いないらしい。
給料日に、宅配の寿司をとったことがある。
広告のチラシを見ながら電話をかけた。
「にぎりを二人前…。特上を一つと…並一つ。
並のほうはさびぬきにして…」
ほどなく配達された寿司の、もちろん並の
ほうを、猫の前においてやった。
「おい、寿司をとってもらう猫なんて、世の
中にそうはいないぞ」
白猫は、ぼくの特上の方をちぐはぐな目で
チラチラながめていたが、やがて、自分にあ
てがわれた並を、しぶしぶ食べ始めた。
その翌日、ぼくが帰宅したとたんに、また
寿司の宅配がとどいたのだ。
「へい、おまちどう! 特上二つね。ひとつ
はさびぬきになってますから」
電話の受話器がはずれたままになっている。
その横で、猫が寿司屋のチラシの上にすわっ
て、すまして顔を洗っている。
「おい、勝手なことするなよ!」
思わず大声でどなったが、猫は「フフッ」
と鼻先で笑うような声をたてて、さっさとさ
びぬきの特上を食べている。
そんな生意気な猫は、さっさと追い出して
しまえばよいのにと、思われることだろう。
そう…、そうなんだが、こいつにもなんと
いうか、かわいいところがあるのだ。
秋も深まって、夜更けの寒さがしんと身に
しみる。そんなとき、こいつがそっとふとん
にもぐりこんできて、ムルルル…と柔らかく
のどをならし、あたたかい体をぴったりとお
しつけてくると、我ながら恥ずかしいんだが、
これがしあわせってものだ、と胸がいっぱい
になるのだ。いっしょに暮らす家族がいるっ
ていうような…。
こんなわけで、冬じゅう、ぼくと猫は、け
んかしたり仲直りしたりしてすごした。
二月のある日曜日のことだった。朝から雪
がふり始めた寒い午後、突然ぼくのアパート
に若い女性が訪ねてきた。
それは会社の部下のひとりで(ぼくにも部
下らしきものが四、五人いるのだ)、数日前
にやけに大きいチョコレートの包みをくれた
ひとだった。バレンタインってやつだ。
「この近くまで来る用事があったんで、つい
でに寄っちゃおうかな…なんて。突然でめい
わくですかあ?」
まったく、くったくない明るい笑顔である。
「い、いや、かまわないけど…」
とまどっているぼくを、おしのけるように
して、彼女はどんどん中にはいってくる。
「あたしったら、まえっから、興味あったん
ですよお、藤野さんに…ふふふ」
(藤野というのが、ぼくの苗字である)
「どんなふうに暮らしてるのかなあって…男
一人で…」
彼女のあまりに正々堂々とした明るさに、
すっかり圧倒されながら、ぼくは言った。
「そ、それが、まるっきりひとりってわけで
もないんだよ…」
いまやぼくにとっての、大事な家族の一員
である猫を紹介しようと思ったが、どこにか
くれたのか姿が見えない。
「ええーっ? それって、どういう意味なん
ですかあ、まさか、藤野さん…」
彼女の顔が一瞬こわばった。
そのときである。洗面所のほうから、妙な
鼻声がひびいてきた。
「あなたぁ? おきゃくさんなの? それじ
ゃ、おすしでも、とりましょか。特上をひと
つ、ふたつ、みっつね。ひとつはさびぬきで
ねえ…フフッ」
「ひどいわあ、藤野さんて、そんなひとだっ
たんですかあ。独身だっていつも言ってたく
せに…、ふけつだわあ、みそこなったわあ」
ぼくのほっぺたをバシッとひっぱたくと、
わあわあ泣きながら、彼女は出て行った。
「おい! どういうつもりなんだ? ふざけ
るのもいい加減にしろよ!」
ノソノソ部屋に入ってきた猫にむかって、
ぼくは、いつになく声を荒げて叱りとばした。
猫はピタッとたちどまると、毛をさかだて
ておもいきり「フウーッ!」とうなった。
そして、ちぐはぐな目でじっとぼくをにら
みつけると、クルリと身をひるがえして、い
つも開けたままにしてある風呂場の窓から、
外へ飛び出していってしまった。
それきり、猫はパッタリ姿を見せなかった。
ぼくはさびしかった。あんなに叱らなけれ
ばよかったと後悔した。あの寒い雪の中に出
て行ったまま、どうしているだろうと思うと、
仕事も手につかないありさまだった。
暖かい春になったある日、ぼくは久しぶり
で公園にでかけた。けやきの木はやわらかな
新緑におおわれて、風にそよいでいた。
ベンチにすわって目を閉じていると、誰か
が歩いてきて隣に座る気配がした。
ぼくにはすぐにわかった。あいつだ…。
目を開けると、ぼくの横に、色白のほっそ
りとした若い女がだまって座っている。
「ずいぶん、うまく化けたもんだね!」
猫は、いや女は「フフッ」と笑って、
「そういうあなただって…」と妙な鼻声で言
った。
ぼくと猫は、いや女は、夫婦になった。ま
もなくこどもが生まれるらしい。どんな子猫
が、いや子どもが生まれるか、楽しみだ。 |
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