神様と ノミ
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佐々木 悦子 著
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ある朝、神様のまえに、死んだばかりの一
人の男が呼び出されてきました。
その男は、傲慢で怠け者でうそつきの、一
文なしの宿無しでしたが、その日の朝早くに
川で溺れ死んだのです。
これから、神様の裁きを受けて、今後の居
場所を決めなければなりません。つまり、天
国か地獄か…。
男の衣服はボロボロで、体からは悪臭が漂
ってきます。死んでも、相変わらずふてぶて
しい顔つきで、横柄な態度もかわりません。
神様は静かにおっしゃいました。
「おまえは生前、なにか悪いことをしなかっ
たか? 悔い改めるならいまのうちだ」
男は床にあぐらかいたまま、鼻くそをほじ
りながら、ぼそぼそ答えました。
「わっしは、なんも悪いことなんか、しちゃ
いませんぜ」
神様は、軽い溜め息をおつきになりました。
「では、おまえはなぜ川でおぼれたのだ?」
「へへっ、ちっとばかし酒を飲みすぎて、そ
いで、橋から落っこちたってわけでさあ」
「一文無しのおまえが、どうして酒を買うこ
とができたのだ?」
「ひっひっひ…、ブタを売ったら、結構な値
で売れやしたんでね」
「そのブタはどこで手にいれた?」
「…ゆんべ泊まった百姓のとこでさあ」
「まさか、その百姓のブタを、盗んだのでは
あるまいな?」
「へん、あいつは、わっしにまずい残飯しか
よこさねえんで…。腹いせによく太ったブタ
を一匹いただいて、どこが悪いものかね。お
まけに、あいつはわっしのことを、しつこく
追いかけてきやがった。」
「素直にブタを返せば、おまえの罪もいくら
かは軽くなったものを」
「ちぇっ、返したくたって、返せないやね。
あんちくしょうときたら、あんまりしつこい
んで、胸ぐらつかんで押し倒したら、バッタ
リ倒れてそれっきりおだぶつだあな」
「おまえは傲慢で、怠け者で、嘘つきで、ブ
タ泥棒で、おまけに人殺しだ」
「ふん、なんとでも言うがいいさ。生きてよ
うが、死んでようが、わっしはわっし。ほっ
といてくれ」
神様は深い溜め息をついておっしゃいまし
た。
「おまえが自分の罪を悔い改めるまで、地獄
におくほかはあるまい」
するとその時、男のよれよれの服の中から、
一匹のノミが飛び出してきて、神様の胸にと
びつきました。
「おいらは、地獄へ行くのはやだぜ。悪いこ
とをしたのはあいつで、おいらはなんもしち
ゃいないんだ」
神様は、そのノミを手にお取りになりまし
た。
「たしかに、おまえには罪はない」
そして、ノミを静かにご自分の懐にお仕舞
いになりました。ノミは男と別れて、神様と
一緒にくらすことになりました。
それからの数日、神様はなんだかいつもよ
り楽しい気分でお過ごしでした。
懐の中に、ノミが一匹いるだけで、ほのぼ
のとあたたかい、しあわせな気持ちになるの
です。
神様はいままで一度もペットというものを
飼ったことがありません。
万物の創造主である神様にとって、すべて
が神様のものであるかわりに、なにか一つの
ものだけを、自分のものとして、特別に可愛
がるということは、許されないことなのです。
懐にこっそり仕舞ったノミは、神様にとっ
て、なんだかわくわくするような喜びをもた
らしました。
自分だけのノミ!
神様は、ノミがいとおしく、それはそれは
大事になさいました。
昼間はそっと胸の中にいれ、夜はうっかり
つぶしてしまわないように、そっと取り出し
て絹のハンカチに包んで、枕元においてお休
みになりました。
そんなある日のことでした。
神様の懐から、のそのそノミがはいだして
きて、遠慮がちにこう申しました。
「神様よう、おいら、どうも、具合が悪くな
っちまってよ…」
びっくりした神様は、ノミにおたずねにな
りました。
「いったいどうしたのだ? わたしの懐では
不満なのか?」
「なんつうか、どうも、落ち着かねえんだよ。
だいたい、ノミってもんはな、人の血を吸う
のが仕事で…」
「おや、おまえは、遠慮してわたしの血を吸
わなかったのか? それは気の毒なことをし
た。さあさあ、好きなだけ吸っておくれ」
神様はいそいそとノミに腕をさしだしまし
た。
「へっ、そいつはいただけねえや。おいら、
やっぱ、あの男といっしょにいるほうが、よ
かったかもしんねえ…」
神様は一瞬、ムッとしました。
このノミは、神であるわたしより、あの、
汚らしく臭い男のほうがよいというのか?
あの、傲慢で怠け者で、うそつきの、一文無
しの宿無しの、ブタ泥棒の人殺しのほうが。
そんな神様の気持ちを見透かしたように、
ノミが申しました。
「神様よう、腕のたつノミってもんはな、こ
っそり人の血を吸って、そいで、わざと人に
捕まえられて、プチッてつぶされそうになる
のを、すばやくピョンと逃げ出すのが自慢な
んでさあ。こんなに大事にされたり、さあ、
どうぞどうぞ吸ってくださいなんて、清らか
な血を差し出されたりした日にゃ、堕落しち
まうぜ。おいらは、あの男とながいこと一緒
にやってきたんだ。おいらは、あいつのすき
を見て血を吸い、あいつはおいらをつぶそう
とする。その緊張感がたまらねえんだ。いつ
も生きてるっていう、張り合いがあったなあ。
あいつが地獄へ落ちることになったからって、
自分だけ助かろうとしたのが、まちがいだっ
たんだ。神様よ、悪く思わねえでくんなさい
よ。じゃ、あばよっ!」
そう言うと、ノミはピョンピョンはねて、
地獄へ行ってしまいました。
神様は、悲しそうにノミのいなくなった懐
をじっと手で押さえました。いま、神様は心
の底から、あの男をうらやましくお思いにな
っていらっしゃいます。 |
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