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鼻 の 穴

佐々木 悦子 著

 ひどい風邪をひいたもんだ。
 ぼくは二週間ぶりで、やっと外出できるよ
うになった。
 久しぶりではく靴が、やけに重たい。
 けやきの葉もすっかり落ちて、裸の枝をど
んよりとした空に向かって、怒ったように突
き立てている。
 ぼくが寝込んでいる間に、世の中はさっさ
と冬になっていた。
 通勤電車は着ぶくれのせいで、いっそうの
混みようだ。車内は過剰サービスの暖房で、
むんむんと息苦しい。
 ぼくは、まだすっかりとれない咳のため、
大きなマスクをつけていたから、よけいうっ
とおしい気分だった。
 まわりの人たちもみな、マスクをしている。
やっぱりそうとう風邪がはやっているんだ。
 ふと気がつくと、ぼくの隣の吊革に、Yが
つかまっている。中学時代の同級生で、はな
はだ無愛想なやつだ。ときたま、この電車で、
顔があうことがある。
「やあ、久しぶりだな」
 こっちを向いたYの顔にも、大きなマスク
がくっついている。
「おまえもか? おれもひどい風邪でさ、二
週間も寝込んだんだ。最悪だよ」
「そうか…」
 Yは無表情で、また外を見る。
 しかし、満員電車のひといきれで、窓は白
くくもっていた。外の景色はなにも見えない。
「おれ、鼻がつまってて、おまけにこのマス
クだからさ…、なんか息苦しいねえ」
「ああ…」
 Yの返事は、そっけない。
 だが、ぼくのほうは、久しぶりに人込みに
出たせいか、妙に神経が興奮して、やたらに
口が動いた。
「鼻の穴って、なんで二つしかないんだろう
ね! こういうときのために、予備の穴がも
う一つ、鼻のてっぺんにあればいいのに…」
 ぼくは、自分のつまらぬジョークに、自分
で腹がたった。
 ところが、それまで無言でうつむいていた、
前の座席のOLが、急にぼくのほうを見上げ
て、ふっふっと笑った。
 彼女もマスクをしているから、きっとぼく
のジョークに共感したんだろう。
 そう思うと、これがぼくの悪い癖で、今度
はもっとうけてやろうと、あさましくしゃべ
りだした。
「それでさ、三つ目の鼻の穴は、ふだんはな
にか有効なことに使えばいいんだよ。たとえ
ば小さな花を一輪さしておく。こりゃあ自分
もいい匂いで気持ちがいいし、まわりのひと
も楽しめる。あるいは、爪楊枝をつねに一本
さしておく。そうすれば、昼飯の安い牛丼食
った後で、歯にひっかっかった肉のすじを取
るのに、たいへん便利なことになる。あるい
は、おりたたみの耳かきなんていうのも、な
かなかいい。とつぜんなにがなんでも、耳か
きしたくて、気が狂いそうになったこと、あ
るだろう? そんな時に、ひょいと鼻の穴か
ら耳かきを取り出せたら、感動するぜ。ある
いは、自分の住所氏名血液型を書いた紙を、
丸めて突っ込んでおいてもいい。交通事故で
病院にかつぎこまれたとき、真っ先に輸血し
てもらって、九死に一生を得ることができる
かもしれない。幸運にも、そんな目にあわな
くてすんだとしても、出先で急にもよおして、
駅のトイレへ駆け込んで、なんとか用は足し
たものの、はっと気が付くと、そなえつけの
トイレットペーパーがきれてた…なんていう
悲惨な状況におちいることはあるかもしれな
い。そうなったら、鼻の穴の中の紙切れ一枚
でも、ないよりはよほどましだ。あるいは…」
 調子に乗ってぼくはしゃべりつづけていた。
まわりの乗客が、みんなぼくのほうをみて、
ニヤニヤ笑っている。
 興奮して額に汗がにじんできたぼくは、が
まんしきれずに、マスクをはずした。
 ぼくの顔をちらと見たYが、場違いな大声
をだした。
「なんだ、おまえ! さっきから変なこと言
ってるとおもったら、やっぱり、まだ二つの
ままなのか!」
「…えっ? 二つって、なにがさ?」
「穴だよ、鼻の穴!」
「…そ、そうだよ。だから、さっきからぼく
は、鼻の穴が三つあったらって、冗談飛ばし
ていたんじゃないか…」
 電車が駅にすべりこんだ。前のOLが、ぼ
くの顔をちらっと見ると、ふっふっと薄笑い
してマスクをはずした。
 彼女の顔の真ん中の、ちんまりと形のよい
鼻のてっぺんには、黒々とした穴があいてい
る。ハンドバッグをパチンと開けると、中か
ら小さな花を一輪とりだして、気取った手つ
きで、それを第三の鼻の穴にさし、ツンとす
まして立ち上がると、電車をおりていった。
「おい、見たか! あの女の鼻…」
 ぼくは、Yのうでをつかんで叫んだ。
「おまえ、なにを騒いでるんだよ…」
 うっとおしそうに言って、マスクを取った
Yの鼻にも、どっしりと第三の穴が陣取って
いるではないか!
「お、おい…、おまえもか!」
 うろたえるぼくをしりめに、まわりの乗客
が、いっせいにマスクをはずした。案の定、
全員の鼻のてっぺんに、穴があいている。
 Yが、けだるげに言った。
「おまえ、知らなかったのか? 二週間前に
国会で緊急鼻穴増殖特別法案が通ったんだ。
今世紀中に、日本国民の鼻の穴を一つふやす
ために、国庫から大幅な補助をだすことがね。
だから今なら二割の自己負担で、やってもら
えるのさ。なんでも、21世紀早々に、全世
界的に猛威をふるうと予想されるインフルエ
ンザのワクチンが、ぜんぜん足りないんだそ
うだ。そこで、せめて鼻の穴を一つふやすこ
とで、国民の息苦しさをすこしでもやわらげ
て、みんなの怒りをなだめようというのが、
政府のもくろみなんだ。下がりっぱなしの支
持率を、くいとめようという最後の切り札を
出してきたってわけだ。ま、これが起死回生
の策となるかどうかは、はなはだ疑問だがね。
 政府のケチなおもわくは別として、鼻の穴
が三つになるとけっこう便利であることが、
みんなにもわかったんだ。おまえのさっきの
冗談がもうとっくに現実になってるのさ。
 いまどき鼻の穴が二つしかないやつは、ま
さに前世紀の遺物ってとこだね!」
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